令和に入る直前に新日本プロレスの歴史を振り返りたい。
令和に入る直前に新日本プロレスの歴史を振り返りたい。
1989年1月8日に「平成」がはじまって3ヶ月後の4月24日に新日本プロレスは団体初となる東京ドーム大会を開催した。
現在では年に一度(2020年は既に2回の開催が発表済み)の祭典イッテンヨン「レッスルキングダム」の開催地として定着している東京ドーム大会の歴史は「平成」と同時にスタートした。
この大会でデビューを飾ったのが獣神サンダー・ライガー選手(同時、獣神ライガー)である。
2020年の東京ドームで引退を発表しているレジェンド。平成の新日本プロレスファンとしてはプロレスラーとして最後の勇姿は必見だ。
さて、ここからは1990年代〜2010年代の新日本プロレスを時系列にまとめてみる。
昭和プロレスという言葉があるが、これから平成プロレスと言う言葉がうまれていくのだろうか。
新日本プロレスファンが平成最後に執筆したブログがこれだ。
1990年代が作ったもの
今ではすっかり定着しているシリーズが始まったのが1990年代である。
「G1クライマックス」や「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」、「スーパー・グレード・タッグ・リーグ(現ワールドタッグリーグ)」。
イッテンヨンに東京ドーム大会がスタートしたのもこの時期である。
また、現在は不定期開催となっているが「ヤングライオン・トーナメント」もこの時期に初開催されている。
つまり、この時期にはじまった新日本プロレスの興行軸が現在も続き、「令和」へとつながっていくのだ。
真夏の最強戦士決定戦。ジュニアの祭典。プロレスファンの初詣。
こうした文化がいつまでも続いていくことを切に願う。
大仁田厚という劇薬
2000年代に入る直前、新日本プロレスには究極の劇薬が迫っていた。
全日本プロレスで生まれたインディーの帝王大仁田厚選手である。
この点は後日にしっかりと執筆する。あまりにも激しくドラマチックなストーリー。
大仁田厚選手と真鍋由さんが紡いだ唯一のエピソードは、後年に語り継がれて然るべき内容となっている。
総合格闘技の台頭
2000代に入ると総合格闘技が台頭。プロレスを見ていたファンが新しい刺激に興味関心を抱き、会場に足を運んだ。
大晦日と言えば格闘技。そんなイメージが生まれたのが2000代の出来事である。
プロレスラーが総合格闘技のリングに上がり、敗北を喫する。
アントニオ猪木さんらが提唱した「プロレスは『打・投・極』のあるバランスのとれた最も実戦的な徒手格闘技」というブランドが揺らいだ時期。ここで新日本プロレスの看板を守ったのが現WWEの中邑真輔選手である。また、桜庭和志選手がグレイシー一族を打ち破ったことで「プロレスラーは強い」という価値観は生き残り続けている。
プロレス界の揺らぎ
当時、新日本プロレスが総合格闘技路線に走らざるおえない状況にあった。そのため、永田裕志選手や中西学選手などアマチュアレスリングで実績を持つ選手たちが次々と総合格闘技のリングへと上がった。
そして、敗れた。
総合格闘技は総合格闘技のルール。プロレスはプロレスのルールのもと試合をしている。
プロレスの興行の合間にしか、総合格闘技のトレーニングができない。準備期間が短いなど、課題を抱える中で総合格闘技のリングに上がるのはリスクがあった。
ただし、ファンからしてみれば新日本プロレスのチャンピオンクラスが別のリングで負ける現実に冷めてしまうのだ。
当時のプロレスに対する価値観は現在とは大きく異なる。
このギャップが新日本プロレスひいてはプロレスの暗黒時代を招いたと思っている。
暗黒という時代
これは売上、動員人数という意味での暗黒を指す。今調べてみると内容としては、チャレンジが非常に多い時代でもある。
「ニュージャパン・カップ」や「IWGP U-30無差別級王座」や「WRESTLE LAND」。
今でも残っている大会や凍結されたベルトなど、色々な取り組みが目立つ。
また、獣神サンダー・ライガー選手がジュニアヘビー級のヒールユニット「C.T.U」を結成したりなど、今とは違った景色のリングを楽しめることができることが特徴な時代と言えるだろう。
新王者と復権の足がかり
2000年以降、新日本プロレス“表の顔”として台頭したのが棚橋弘至選手だ。
プロレスラーらしからぬチャラいキャラクター。ロン毛にメッシュ。バキバキのマッチョな身体に爽やかな笑顔を浮かべて、徹底的に新日本プロレスを宣伝し続けた。
「オレのことは好きでも嫌いでもいい。ただ、オレに興味を持ってプロレスとの距離を縮めて欲しい」
新日本プロレスを復権させるためにタチアガった男の背中には、中邑真輔選手と第三世代がいた。
プロレスは一人ではできない。ライバルがいなければ、成立しないスポーツだ。
棚橋弘至選手目当てで来たけど、中邑真輔選手カッコいい。どんな形でもいい。プロレスの熱をもう一度灯すために一つになった、彼らの姿があった。
例えば、真壁刀義選手や矢野通選手。新日本プロレスの必要悪として、とことんベビーフェイスを痛めつけた。
そして、いよいよ2010年代へ突入する。新日本プロレスがユークスに身売りした時代を経て、爆発する瞬間が迫ってきた。
レインメーカーショック。新時代へ
2000年代のメインイベンターから世代交代を行った時代が、2010年代つまりは平成後期の新日本プロレスになる。
その象徴が“レインメーカー”オカダ・カズチカ選手だ。
身長191センチ。甘いマスク。高すぎる身体能力。そして、圧倒的な華。
中学を卒業後、メキシコに渡り新日本プロレスへとたどり着いた若者こそが、新日本プロレスが求めていたパズルのピースだった。
「IWGPヘビー級ベルト」を11度防衛した棚橋弘至選手だが、ここまでの防衛記録を作ると、ライバル不在という状況に陥りがちだ。
ここでオカダ・カズチカ選手が現れた。そして、歴代2位の若さで新日本プロレスの象徴を手に入れたのだ。
懐疑的だったファンの目線もなんのその。自分の実力だけでひっくり返し、新日本プロレスに金を降らす男としての価値を発揮し続けている。
2019年の新日本プロレス
2010年代後半には次期エース候補だった内藤哲也選手が“制御不能”と化し、新ユニット「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」を結成した。
会場人気NO1。街中でキャップを被っている人を見かけるほどの人気を博している。
DDTからブリーランスとなった飯伏幸太選手が専属の契約を結んでいる。
そして、これを2018年前半の僕に伝えたら度肝を抜くと思うのが飯塚高史選手が引退し、獣神サンダー・ライガー選手が2020年で引退を発表。
「ジ・エリート」がマーティー・スカル選手を除き新団体を立ち上げ新日本プロレスを去っている。
真壁刀義選手と矢野通選手がタッグチームを再結成している。
などなど、びっくりなサプライズが令和の時代になってもつづいていくことだろう。
僕の個人的な願いを残しておくならば、後藤洋央紀選手の「IWGPヘビー級ベルト」戴冠。高橋裕二郎線選手の復帰。そして、これからも最高の試合が続いていくことだけである。
令和の新日本プロレスも楽しみ続けたい。