グレート・ムタ。推しという概念がない世界で生まれたトップヒール

グレート・ムタ。推しという概念がない世界で生まれたトップヒールの話を書きたい。

新日本プロレスが正式に興行中止を発表して、一夜が明けた。

今回の自粛は新日本プロレスがファンのために取った行動だ。それだけに、エンタメを観る側ならば従うしか無い。いや、むしろ何かが起こらないように対策を取ったことを誇りに思うべきだろう。

木谷オーナーからの提言もあったということで、これからの動きに期待も持てるわけで。

国会が対策を発表した時点から僕はこれから何を書いていくのかで悩んでいた。

2週間試合がない状態で記事を書くのは決して楽なことではない。特に今回は突然の中止でもあるため、書くことがない問題に直面する可能性が高かった。

だが、自粛が続く中で感染リスクゼロのNJPWFUNが更新をストップするのもなんだか違う話だと思った。

そこで、もしも新日本プロレスが中止を発表したら、一つのテーマで執筆していくことに決めた。

そう、今は改めて新日本プロレスの歴史をしっかりと勉強すべきタイミングなのだ。

公式メディアではなく個人ブログ。ドメインも手前味噌な“邪道”ブロガー。その生き様をこれからも刻み続けるためには、学びが必要不可欠と言える。

最初に選んだ試合はTwitterでお題をいただいたグレート・ムタ選手VS馳浩さんだ。

エクスプロージョン・ツアー。1990年9月14日の一戦である。恥ずかしながら、僕はこの試合は見たことがない。

“天才”武藤敬司選手の化身であり、グレート・カブキの息子でもあるグレート・ムタ。

新日本プロレスのMSG大会にも参戦した伝説のレスラーは30年前どんな姿をし、どんな試合を見せていたのか。

武藤敬司選手がアメリカへの遠征から帰ってきてから約5ヶ月後となる一戦を見てみよう。

 

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1990年の新日本プロレス

と、その前に1990年の新日本プロレスについても調べておこう。ちょうど今から30年前。2月10日にジャンボ鶴田さん、天龍源一郎さんらが参戦した「’90スーパーファイトIN闘強導夢」が開催されている。

ちなみに獣神サンダー・ライガー選手のデビューが1989年。1991年には「ヤングライオン杯」、「G1クライマックス」「スーパー・グレード・タッグ・リーグ(現ワールドタッグリーグ)」がスタート。今でも続くシリーズがはじまったのが約30年前だったのだ。

中西学さん、永田裕志選手、矢野通選手らも所属したアマチュアレスリングの育成機関「闘魂クラブ」も1991年に発足している。

現代の新日本プロレスにも通じるものが沢山生まれた年。それが1980年代後期から1990年代初期になるのだ。

 

真っ赤に染まるムタ、毒霧の乱舞

入場シーンはカット。リングあなうによる2人のコールから動画はスタートした。

まず、馳浩さん。とにかくゴツい。デカい。蛍光イエローのコスチュームがよく映える肉体をしている。

一方でグレート・ムタ選手。いやはや想像と全然違う姿だった。

僕の知っている一番古いグレート・ムタ選手の姿はVSグレート・ニタ戦である。

“グレート・メカニック・ムタ”とは違い、真っ赤なコスチュームに真っ赤なフェイスペイント。逆に描かれた「炎」や「忍」の文字。

派手さよりも禍々し邪気を放つグレート・ムタの姿がそこにはあった。

グレート・ムタ(愚零闘武多)という存在が生まれ落ちたのは1989年4月。新日本プロレスに姿を現したのが1990年9月7日のサムライ・シロー(越中詩郎)選手戦となる。

つまり、僕が見ているこの一戦は初登場から一週間後の試合だったのだ。

 

緩急と身体能力

少し時間があったので同時期に行われていた、「IWGPタッグ選手権試合」マサ斎藤さん&橋本真也さんVS武藤敬司選手&蝶野正洋さんの試合を見てみた。

コスチュームは赤だが、グレート・ムタのパンタロンとは異なるショートタイツ。

グレート・ムタで魅せていた忍者殺法も使用しないなど全然試合運びが異なっている。

辻アナウンサーが「戦いの二重人格」と語っていたが、まさにその通りだった。

赤く染まる2人

試合開始から10分が経つと、グレート・ムタ選手のフェイスペイントが全て落ちた。

これでは武藤敬司選手に戻ってしまうのではないか?と、思っていたのもつかのま、場外に投げ捨てられた馳浩さんは夥しいほどの出血をしていた。

まさか、グレート・ムタの魔力が相手を侵食したのか。と、思わず息を飲む。

アメリカの地でトップヒールとして活躍した“グレート・ムタ”。その魅力は試合終盤になってさらに色濃く浮き彫りになっていく。

馳浩さんの血が今度はグレート・ムタを染めていくではないか。

コーナーに座らせた相手へナックルパートを繰り出す。今でいうと真壁刀義選手が使用し10回ぶん殴る技だと言えば分かりやすいだろうか。

そして、馳浩さんがひねりの効いた裏投げを見舞う。雌雄が決したか!?と思いきや、緑の毒霧を披露。

最後は担架で“狂気攻撃”を行ったグレート・ムタの反則負け。ラウンディング・ボディプレスを見舞ってリングを去る。

カリスマ性を放つトップヒールへ日本でも成り上がるキッカケになった試合。僕はそう受け取った。

 

推しという概念のない世界

圧倒的な華を持つ武藤敬司選手はベビーフェイスの権化である。ただ、一方でグレート・ムタという存在は禍々しいまでのヒールそのものであり、武藤敬司選手の対局に位置する存在と言っても過言ではない。

“武藤敬司とグレート・ムタ”。合わせ鏡のような関係を明確に意識したのはこのタイミングだった。

馳浩選手が場外からリングへと帰還する際、会場は大大大馳コール。敢えて言うが今の新日本プロレスとは全く空気が違う。

ベビーフェイスとヒールの関係を観客が肌で感じ取っているのだ。

悪に染まった逆輸入レスラーであるグレート・ムタには声援が飛ぶことはない。

“推し”という概念がベビーフェイスとヒールの壁を壊すものになった。そんな言葉が生まれる数十年前の新日本プロレスでヒールレスラーは圧倒的な“悪役”として君臨していたように映った。

いや、改めてこうも思う。アメリカマット界をも席巻したグレート・ムタの爆発的な人気こそが「ヒールがダークヒーロー」になる幕開けだったのではないだろうか、と。

ヘイトを集めるだけの存在だったヒールが、“悪の花道”を歩むキッカケになった一戦。

アメリカのトップヒールが日本でも輝けることを証明した一戦。

この試合をご紹介いただいたやっさんに感謝の意を込めつつ筆を置きたいと思う。

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