「俺の家の話」最終回を新日本プロレスファンが見た感想

「俺の家の話」最終回を新日本プロレスファンが見た感想を書いていきたい。※ネタバレを含むので未視聴の方は注意して欲しい。

主演・長瀬智也さん、脚本・宮藤官九郎さんのTBSドラマ「俺の家の話」が最終回を迎えた。

長瀬智也さんは2021年4月1日にジャニーズ事務所を退所し、その後は裏方としてゼロから新しい仕事を作り上げていくと発表されている。

この発表をそのまま受けとると、「俺の家の話」の観山寿一が役者業としては、最後の役となる。

長瀬智也さん。

少し歳が上で中学生くらいからずっと知っていた方が表舞台から去ってしまう。

相手は当然、僕のことなんか知らない。一方的に彼の仕事を見てきたファンからすると、時代を体現した人だったなと思う。

1998年1月12日。月9の枠で放送されていたドラマ「Days」。この作品の主演が長瀬智也さんだった。

ロン毛で高校中退。上京して、夢を探す若者の役だ。物語は成人式からスタートする。

何もないけど、とにかくキラキラしている。そんな若者の爽やかで甘酸っぱい人間ドラマだった。

今でも覚えてる。このドラマのラストシーンで長瀬智也さん演じる矢部鉄哉は「俺が死ぬ時にいい人生だった!と大声で叫べる生き方をしたい」と語っていた。

当時、中学生だった僕にこの言葉が刺さった。

そして、長瀬智也さんが最後に演じた観山寿一は最終回の冒頭で死んでしまった。

俺がいない俺の家の話。前振りが長くなったが本題に入っていこう。

 

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ブリザード寿、スーパー世阿弥マシン

ブルーザー・ブロディに憧れてプロレスラーを目指した観山寿一。彼は42歳で亡くなった。この年齢を調べてみると、ブルーザー・ブロディが亡くなった年齢と同じ歳であり、最後の相手の名前もかなり狙っていたことが分かった。

ホセ・カルロス・ゴンザレス・サンホセJr.。ホセ・ゴンザレスと言えば、プロレスファンであればピンと来るに違いない。

ブルーザー・ブロディを刺したレスラーの名前がホセ・ゴンザレスだったのだ。

最後の技は...バックドロップ。ここは敢えて書くのをやめておこう。

プロレスを明るく楽しいものとして描いていた本作だったが、最後の最後で厳しさを描いた。

プロレスラーは危険と隣り合わせで命を張って戦っている。

だからこそ、リングで魅せる生き様が美しいのだ。

 

シナリオについて

ここからはシナリオについて。

磯山晶プロデューサーによると、企画当初から観山寿一が亡くなることは決定していたようだ。

能楽には亡霊が出てくる。だから、最後の舞台で息子の亡霊が出てくる物語にしよう、と。

——衝撃的な最終話でした。磯山さんは最終話にどのような思いを込めましたでしょうか?

企画当初から寿一のモノローグ「これは俺のいない俺の家の話だ」は決めていたのですが、どうやってそれを描くか、は決めていませんでした。でもその後、長瀬くんが事務所を辞めることが決まった時に、宮藤さんと「結末を変えようか?」と話し合い、長瀬くんにも相談しました。でも彼は「え?なんで?変えなくていいんじゃない?」と言うので(笑)、初志貫徹しようということになりました。だから辞めるから、死ぬことにしたのではないんです。
今回、能楽を初めて勉強して、「亡霊」が出てくる演目が非常に多い、というのが最初の印象でした。だから最後の舞台で寿一の亡霊が出てくるのがやりたいね、って話になりました。亡霊というのは「思い残し」があって現世をさまよってしまうものだと思うので、「一度も父親に褒められたことのない息子が初めて褒められる」シーンにしようと。最大級の褒め言葉が必要ですね、と宮藤さんとは話していましたが、初稿を読んで「人間家宝」には泣いてしまいました。このためにあんなに何度も人間国宝って言っていたのか、と思うくらいの見事な伏線回収!だと思います(笑)。
寿一みたいな長男が家にいたら「家宝」だよなあ、と思いますし、長瀬くんしかそんな役、出来ないと思います。

出典:TBS

 

長州力と志田さくら

家族と能は卒業(成仏)できても、プロレスラーはやめられなかったのか、最後の最後で再びスーパー世阿弥マシンとして姿を現した。

不思議なもので長州力さんだけがスーパー世阿弥マシンの姿を視認することができていた。

このシーンの少し手前で墓参りに行った志田さくらの前にもスーパー世阿弥マシンは登場していた(山賊抱っこ&キスシーン)。

俺の家の皆の前には登場せず、なぜこの2人の前にだけ現れたのか...。

色々な考察はあると思うが、縁が深く死を受け入れられなかった人の前に出てしまったのではないだろうか。

観山寿三郎は「褒めていなかった」。

志田さくらは「嘘をついたままだった」。

長州力さんは「絶対音感があるか聞きたかった」。

長州力さんは観山寿一のもう一つの顔であり、プロレス人生における父である。

そんな彼の前に現れることは決して不思議なことではない。

彼にとってプロレス界も「俺の家の話」なのだから。

そして、なによりも「跨ぐな!跨ぐな!」を言わせたかったに違いない。

 

プロレスラーとして

観山寿一は能楽師とプロレスラーの二足の草鞋を履き、その人生を全うした。

前述した通り、観山寿一は元々死ぬことが決定していた役で長瀬智也さんが裏方に回ることが後から発表され、脚本を書き換えることも検討されたらしい。

長瀬智也さんがこのままでいいんじゃない?と言ったことで、大筋のシナリオはそのままになった。

ここでプロレスファンならではの視点で、このエピソードを紐解いていくと、オチは同じだが、どこが変わったのか?どんな影響があったのか?と考えてみる。

国語の問題で「作者の気持ちを答えなさい」くらいに正解がない問いにはなるので、端的に思ったことを書く。

僕は物語のラストシーンが長瀬智也さんが今後裏方に回ることにより生まれたシーンだと思っている。

正確にはマスクを取って投げたシーンだ。

なぜ、マスクを取る必要があったのか。あのシーン自体にマスクを自ら脱ぐ必要は特に感じられない。

能楽師、長男としての生き方は全とうできたが、プロレスラーとしては死んでも生き続ける。

そんなプロレスというジャンルを体現するかのような名シーンだが、マスクを脱がなくてもよかったはずなのだ。

マスクマンにとってマスクは命と同じである。そんなマスクを自ら脱いだのだ。

次の瞬間から別の人生を生きる。そんな強いメッセージを感じた。

観山寿一の顔はブリザード寿(ロン毛)として大きく飾られていた。

長瀬智也さんのトレードマークだったロン毛(の写真)をバックにスーパー世阿弥マシンがマスクを取る。

マスクの下にはあるのは、観山寿一の顔ではない。観山寿一は観山寿三郎と志田さくらの問題をクリアしている。

スーパー世阿弥マシンのマスクの下にあったのは長瀬智也さんの顔だったに違いない。

顔を敢えて映さなかったのもそのためだろう。

長瀬智也さんは復帰したくなったらいつでも表舞台に帰ってきてもいい。

プロレスラーは現役を引退してもプロレスラーなのだ。

自叙伝であり、エールであり、社会派である。

「俺の家の話」は最高のドラマだった。

長瀬智也さんのこれからの“日々”に「思い残し」がない作品にはなったと思う。

それでも帰ってきてしまうのがプロレスラー。何度引退してもいいし、何度復帰してもいい。

ここまで大掛かりに表舞台から去ることを演出されたのに、いきなりポッと帰ってくる。それがいいのだ。それが許されるのがプロレスラーなのだ。

これからまた長瀬智也さんに会えることを願いつつ、「僕と長瀬智也さんの話」を締めくくりたい。 

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